稽古では、
無になることを求められる。
そのひとつとして、
自我を無くさなくてはいけない。
こうして、
言葉にすると簡単であるなあ。。(苦笑)
そもそも
自我を無くすとは、
どういうことなのか。。
自我という
今まで無意識のまま
培ってきた自分という型。
なんとなく、
金属製のものを製造する際に
使われるテラコッタの鋳型が
思い浮かんだ。
たしかに、
物作りで使われる鋳型も最終工程で、
叩き割らなくてはならない。
物だけでなく、
そういえば、他の生き物でも
蝶が孵化するときにも殻を破り、
大空へ羽ばたいていく。
卵から孵化するひよこも、
自ら殻を割り鶏へと成長していく。
いつ何時も
自我にとらわれていては、
いつかは敵にやられてしまう。
そこで、
敵に柔軟に対応するために
鋳型(自我)を割り(無くし)、
自由になっている必要がある。
それが、
大東流の稽古で必要とされる
『 無になる。』
ということの
意味のひとつなのかしら。。
秋が急に深まり、
久しぶりに思考モードに
入ってしまいました。(笑)