型稽古を通して、
型稽古の相手を通して、
私たちは、
いま、ここの
自分の現状を知ることができる。
そこに現われるのは、
知りたくない自分の姿であり、
思いもよらない自分の姿である
かもしれない。
けれどそれは、
誰かの批判でも評価でもない。
大東流の技が触媒となり、
自然と現われ出るだけである。
それを受け入れるか、
受け入れないかは自由である。
しかし、
受け入れ、
そのような自分に直面することで
生まれる気づきがある。
これこそが、
現代においてもなお
私たちが、
大東流の稽古をすることで
得られる智慧である
と感じている。