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無の境地

『自らを無にすること。』

大東流の稽古においても、

大切なあり方である。

頭ではわかっていても、

すぐに、

技をかけようとする自分に

意識が向いてしまっている。

そして、結果、相手に隙を

与えてしまう。

もう、この繰り返しである!

そして、昨日、

来日した私の瞑想の師でもある

チベット仏教僧侶による

講和を聞いていて、

この『自らを無にすること』と

似ていると感じた話があった。

それは、

仏教の経典の一節を解説した話で、

菩薩(bodhisattva)には、

『私が存在しない。(No me)』

そして、この境地に入ると

とてつもない愛や慈悲の世界が

広がっているのだそうだ。

この話を聞いて、

私の勝手な妄想であるけれど、

自らを無にすることが、

菩薩の境地に近づくことでもある

とすれば、

それは、簡単なことではないなと

改めて感じたのだった。

そして、

あせらずに、

心に少し余裕を持ち

稽古を積み重ねていこうと思った。

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