top of page

無の境地

『自らを無にすること。』

大東流の稽古においても、

大切なあり方である。

頭ではわかっていても、

すぐに、

技をかけようとする自分に

意識が向いてしまっている。

そして、結果、相手に隙を

与えてしまう。

もう、この繰り返しである!

そして、昨日、

来日した私の瞑想の師でもある

チベット仏教僧侶による

講和を聞いていて、

この『自らを無にすること』と

似ていると感じた話があった。

それは、

仏教の経典の一節を解説した話で、

菩薩(bodhisattva)には、

『私が存在しない。(No me)』

そして、この境地に入ると

とてつもない愛や慈悲の世界が

広がっているのだそうだ。

この話を聞いて、

私の勝手な妄想であるけれど、

自らを無にすることが、

菩薩の境地に近づくことでもある

とすれば、

それは、簡単なことではないなと

改めて感じたのだった。

そして、

あせらずに、

心に少し余裕を持ち

稽古を積み重ねていこうと思った。

最新記事

すべて表示

今朝はいつもと違う 少しひんやりした空気でした。 まだまだ暑さも続きそうですが、 確実に自然は秋へ 向かいつつあるなぁと感じます。 自然が一歩先に秋に入りつつあるなか、 遅れて人間社会の夏があるようです。 そういう意味では、田舎に住んでいると 両方を味わえてお得ですね。(笑) それにしても、 夏は草木の成長が著しい、 私にとっては草刈りありきの日常、 普段よりも天気を気にしながらの生活です。 また

春が一気にすすんで 菜の花が開花しているのを 見て楽しむだけでなく、 今年は摘んで炒め、 食したりしています。 さて、 大東流の稽古では、 「みる」ことが 大事ですが、 これがやってみると 実は、 「みているつもり」 の場合がほとんどです。 これを実感し、 自身の人生を 振り返ったときに、 今まで長い間 なんとなくみて 生きてきたのだなと、 愕然とします。 そして、 慎重さが必要であることを 知ら

令和4年度諫早稽古会の 最後の稽古では、 一つの型を座りで一人づつ 古賀師範が稽古を つけて下さいました。 しかし、 この日はなぜでしょうか。 古賀師範の手を掴む前から 師範からただならぬ気が 醸し出されていたように感じ、 私の防衛本能からか、 腹の底から声にならない声が 自然と出てきたのです。 そして、掴んだとたんに 普段はでないような 野太い声がわが身から発せられ、 不思議な感じがいたしました

bottom of page