top of page

掴んでいるのに

今日の稽古で、先生の受けを取らせて

いただき、いままでも感じていたものの

ぼんやりとして言葉にならなかったもの

がはっきりした。

それは、受けを取るために先生の腕を

掴んでも、掴んだ感じがしないことで

あった。

そして、今日も掴んだ感じがしないまま

狐につままれたかのように、いつの間にか

倒されてしまった。

この、

『掴んでいるのに、

掴んでいる感じがしない。』

これが、なぜなのかがはっきりした。

それは、普通腕を掴まれると掴まれた刺激に

対して肉体が反応し、筋肉の緊張または緩み

が起こる。

この相手の肉体的反応を通して掴んでいると

実感していた自分に気づいたのだ。

それは、まだまだ、力を拠り所にしている自分

が居るということでもある。。(残念失笑)

それが、先生の場合、これが全く無い。

もちろん、先生は姿形は普通であるし、

筋肉もあるのだろうけれど、

その機能の仕方が、普通ではないのだ。

そして、私は、掴んでいる実感を得られず、

自分の身体が、「あれっ?!」感的になり、

そして虚を突かれるがごとく、あっさりと

倒されてしまっているのだと。

そんなことも、わかった。

またわかってくると、この肉体的反応の世界

とは違う世界を、実感を伴い見たいとも思った。

そして、

頭では解かっていたが、

改めて先生が、

肉体による力を解脱されたかたなのだと

本当に理解した。

最新記事

すべて表示

春が一気にすすんで 菜の花が開花しているのを 見て楽しむだけでなく、 今年は摘んで炒め、 食したりしています。 さて、 大東流の稽古では、 「みる」ことが 大事ですが、 これがやってみると 実は、 「みているつもり」 の場合がほとんどです。 これを実感し、 自身の人生を 振り返ったときに、 今まで長い間 なんとなくみて 生きてきたのだなと、 愕然とします。 そして、 慎重さが必要であることを 知ら

令和4年度諫早稽古会の 最後の稽古では、 一つの型を座りで一人づつ 古賀師範が稽古を つけて下さいました。 しかし、 この日はなぜでしょうか。 古賀師範の手を掴む前から 師範からただならぬ気が 醸し出されていたように感じ、 私の防衛本能からか、 腹の底から声にならない声が 自然と出てきたのです。 そして、掴んだとたんに 普段はでないような 野太い声がわが身から発せられ、 不思議な感じがいたしました

近所に養鶏所が何か所かある。 その入口に自動販売機で、 にわとりの卵が 新鮮たまごとして 販売されていている。 わかりやすく言うと、 「生産直売所」。 にわとりの姿は全く見えない。 工場外からウィルスや菌を 持込む小動物が侵入しないよう 窓も見当たらない。 外観からは、 とうてい多くの生き物が 暮らしているとは想像できない。 車で横を通ると 購入している人の姿をよく見かける。 そのたびに、 このよ

bottom of page